倉敷(地区)には、伝統的建造物群保存地区〔伝建地区〕、約15ha、370世帯があります。さらに、〔伝建地区〕に加え、倉敷市独自に〔美観地区〕として、3.6ha、約100世帯を指定しています。伝建地区の規模としては日本一です。
さらに倉敷が伝統的建造物群保存に加え、伝建地区内に、新たな文化施設を造り出していることが大きな特徴です。、大原美術館、倉敷考古館、倉敷民芸館は、クラボウ・クラレの創業家、大原家の遺徳とされ、多くの文化人、専門家の協力を得て、文化都市へと前進して来ました。
文化都市を標榜する倉敷市ですが、変質・逸脱が度々起こされてきました。背景(見える範囲)、を含めた景観を守る、高層化など都市開発から景観を守る、エセ文化の流入から、市民の声を基に文化を守ること、これらへの普段の努力が求められます。
1981年倉敷市は、市庁舎等移転に伴う跡地利用案を、新市庁舎を設計した、建築家浦辺鎮太郎氏に一任。「観光文化公園案」が示されました。しかし、市民からは、「市民不在、他人のまちづくりだ」と批判が出、文化人・専門家41人委員会アピールが出されて、議論が進み、現在のような市立美術館・自然史博物館、中央図書館へと計画変更されました。
次の危機は、都市開発による背景保全問題として起きました。倉敷市が「世紀の大事業」として、1970~80年にかけて、駅前再開発・幹線道路(古城池線)建設を行い、美観地区の一部が幹線道路沿いの商業地域になり、そこに民間デベロッパーによる開発ラッシュが起こりました。
倉敷市は伝建地区の背景を守るため、急いで空中権の買取を含む建築物高さ規制条例を議会に提案。日本共産党倉敷市議団は、文化人・専門家、市民と協議、市民に納得できる説明を求め、条例制定に賛成しました。これは全国の景観保護の取り組みに大きく寄与しました。
倉敷市の伝建地区、文化都市への最大の危機は、チボリ公園誘致でした。岡山市制百周年記念事業として計画されたチボリ公園誘致(予定地JR北長瀬駅付近)が、岡山市長選で、市民から「ノー」を突きつけられ中止が迫られているにも拘らず、責任回避を図った長野士郎知事が、渡辺行雄倉敷市長に依頼し、倉敷駅北口の「クラボウ工場跡地」への誘致を強行しました。
1995年の倉敷市長選挙は「チボリ選挙」と呼ばれ、日本共産党は、元助役の室山貴義氏と協定を結び、統一候補として全力支援。当時の社会党、保守系議員と共に選挙戦を闘いました。投票日当日、コンビナート大企業の投票動員がなければ勝利していた、と言われる大接戦を演じました。
チボリ公園誘致は、県と市と財界が総掛かりで建設・開園を強行、7百億円の税金を投入しましたが、開園から11年、集めた資本金160億9千万円も使い果たし、2008年閉園に追込まれました。
チボリ誘致反対運動の中で「チボリが来れば私は倉敷には行かない」とメッセージを頂いた、俳優の花澤徳衛氏の言葉が示すように、伝建地区を持ち、背景を含む保存活動に市民が協力してきた文化都市倉敷への、大きなイメージダウンとなりました。
チボリ誘致を倉敷市が受け入れれば、県が鉄道高架(倉敷駅付近立体交差事業)をしてくれると、かつて渡辺市長は集会で語っていました。「チボリを起爆剤」に、鉄道高架及び駅北250haの都市開発を行う、という渡辺市長の大風呂敷は、県試算でも鉄道高架の費用対効果がないとされ、鉄道高架用地を生み出す第2土地区画整理事業の停滞で、完全に行き詰まっています。
開発至上主義のまちづくりを排し、伝建地区、文化施設を拡げ、便利で快適なまちづくりを進めることが求められています。「観光」は、光り輝くものがなくなれば、やがて見捨てられていきます。真の観光都市とは、真の文化都市になることではないでしょうか。
かつて、市民や市職員が「代官所グループ」と称して、街づくりを熱く語り合った、と聞いています。いま倉敷市は、市民との協働を盛んに宣伝していますが、一部に留まっていることは否めません。行政への厳しい意見を含め、多くの市民の相互交流が活発に行われ、街づくりへの熱い語りが、今求められているのではないでしょうか。
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