三市合併は、埋立地水島への鉄鋼・石油コンビナート建設に関連して、1967年児島市議会、玉島市議会、倉敷市議会でそれぞれ強行採決されました。そして、1969年には、西中新田の新市庁舎予定地(竣工1980年)西の田園地帯143.6haを副都心にするとして、大高地区土地区画整理事業の区域指定が強行されました。これに対して、近郊野菜農家は「土地タダ取り、勝手な換地」と反発し、水島コンビナート従業員が居住する「田園宅地の環境変化」を嫌う人たちが一緒になって反対運動を展開。1974年倉敷市は区域変更を決め、大山茂樹市長(当時)の住む沖地区(24.2ha)の区画整理(組合施行)に縮小しました。これは「倉敷市史」にも、都市開発の農地取り上げに反対する農民運動として記述されています。
それから4半世紀後、、岡山市で要らないとされた「チボリ公園」をクラボウ万寿工場跡地に誘致するため、1993年、倉敷駅北250haの都市開発を発表。石見町、日吉町など22.5haの土地区画整理事業が、住民の9割以上の反対を押し切って強行されています。チボリを起爆剤にした都市開発、と称されましたが、チボリ公園が大赤字で閉鎖され、「チボリを受け入れれば県が鉄道高架をしてくれる」と宣伝された倉敷駅周辺鉄道高架事業も、岡山県の財政難で事業計画も決定されていません。土地区画整理区域の住民は、固定資産税が宅地並みに高額徴収され、アパート経営も、土地の活用も制限される不利益が押し付けられています。
1968年都市計画法改正で、市街化区域線引きが行われ、農地の宅地化を促進するため、農地への「宅地並み課税」重税が押し付けられました。三大都市圏では、即「宅地並み」となるため、生産緑地制度創設など農業継続への配慮施策が農家の要求により行われましたが、それ以外は、負担調整というやり方で、農地税額から毎年1.1倍以下ずつ値上げし宅地評価の3分の1に達するまで値上げされます。50年間で10a当り1千円が11万8千円程度になり、併せて、3年毎の路線価評価替えで地価上昇が加味されます。倉敷市の場合は、10a当り20万円超もの重税となり、米麦二毛作の農産物価格をオーバーします。
土地区画整理事業、宅地並み課税による、農地の宅地化政策・都市開発は、農家の経営を圧迫し後継者難を招くとともに、都市農業・農家を疲弊させ、消滅の危機へと進んでいます。かつて、倉敷市の近郊農家が「イグサ」栽培で繁栄し、倉敷駅前に設置された「臨時職安」に県北や四国からの出稼ぎ労働者が集まり、その買い物で商店街が潤った、と言われます。農家と商店が共存共栄していた倉敷市から、水島コンビナート大企業優先の倉敷市へと転換が計られたのが、合併50年ではなかったでしょうか。 都市農業振興基本法成立は、新たな50年後への方向を見つける一助となると思います。
最近のコメント